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よろづ天道まかせで

2010-01-01から1年間の記事一覧

わざわい

「禍(くわ)は寔(まこと)に依(よ)る所に生ずるなり。外物の変は窮むるに勝(た)ふべからず、外(ほか)に恃(たの)んで以て安(やすし)と為す者は其患(そのくわん)夫れ豈(あに)一端のみならんや。 (呂東萊、『東萊博議』) わざわいというのは…

己を治むるの心を推して

「自治は個人の自修を以て基礎観念とするので有る。各人各自其の己を治むるの心を推して郷邑に及ぼし、縣郡に及ぼし、拖(ひ)いて一国に及ぼすのである。斯くの如くすれば一国は猶ほ一人の如くである。其利と害とは何人も痛切に之を感知して、国の全体に血…

幼想と反動

「・・・新旧転遷の際に於て注意を要するは、斯る場合に行はれ易き、央(なかば)自覚なき幼想のために、適宜の進路を粉殽(ふんこう)せられぬやうにせねばならぬ。又た反動的感情のために、理性の聡明を猾(みだ)されてはならぬ。幼想と反動とは、牽(ひ…

隠に在りて顕に在らず

ウィキリークスのケーブルゲートで、陰の部分が次々明らかになり、米国のやり口がわかるので、それを伝える情報を読むのが楽しくて仕方ない。 「人を観るの術は、隠(いん)に在りて顕(けん)に在らず、晦(くわい)に在りて明(めい)に在らず。顕と明とは…

釣餌を為して

「・・・釣餌(てうじ)を為して以て魚を誘ふ者は釣(てう)なり。陥阱(かんせい)を為して以て獣(じう)を誘(みちび)く者は猟(れふ)なり。釣者(てうしや)を責めずして魚の餌を貪るを責め、猟者(れふしや)を責めずして、獣の阱(せい)に投ずるを…

吠える

「・・・一犬(けん)形(かたち)に吠(ほ)え、百犬聲(こえ)に吠えて、仁義の道荒(すさ)まん。・・・ (呂東萊、『東萊博議』) 流行らしいツイッターをたまに覗くことがあるが、この一文を思い出ささせられるときがあるな:)

「蓋(けだ)し事に善悪有り、而(しか)も念(ねん)には善悪無し。是(こ)の念、事の善なる者に加はれば、則(すなは)ち善念と名づけ、事の悪なる者に加はれば、則ち悪念と名づく。・・・ (呂東萊、『東萊博議』) ここで念というのは早い話が人間の意…

去るを忘れて

「人は皆な往年の既に去るを忘れて、次年の未だ来らざるを図り、前日の已に過ぐるを舎てて、後日の将に至らんとするを慮る。」(『言志耋録』) 人間は忘れっぽく、目先のことばかり気に掛けているわけだ。

楽を存するの工夫

「人は須らく忙の裏に間を占め、苦の中に楽を存するの工夫を著くべし」 (『言志耋録』) 「間を占め」とはくつろぐ時間くらいの意味だろう。忙しい時にはなかなかそうもいかない。「苦の中に楽を」とは苦しくても楽天的にという意味か。くつろげず、やすら…

報徳学

先般、さる席で二宮尊徳の話となる。その教え(報徳学)は下記の、尊徳の高弟、福住正兄の、『二宮翁夜話』の自跋に明快と思う。メモしておこう。 「夫報徳学は実行学なり、故に普通の学とは違ひ、実徳を尊んで実理を講明し、実行を以て実地に施し、天地造化…

敢(あへ)て之を侮(あなど)らんや

呂東萊、『東萊博議』の「隨(ずゐ)楚(そ)に叛(そむ)く」中の一文に目が止まる。 「君子は我の弱(じやく)を憂(うれ)へて、敵の強(きやう)を憂へず、我の愚(ぐ)を憂へて、敵の智(ち)を憂へず。弱は強の対(たい)なり。我苟(いやしく)も弱(…

生死に心を用いる

18世紀朝鮮の実学者、洪大容の「毉(い)山問答」にあるという下記文言はエネルギー論的にも環境の面から見ても、おもしろい。 「太陽の花火が輝きを増せば衆生が多いに増え、形体が交接し孕むことにより人間と万物が増殖する。優れた知恵は日々に衰え、小賢…

偃然(えんぜん)として

テレビニュースで我が国の指導者になる人物を見る。その偃然(えんぜん)とした、つまり驕傲さをたたえた得意の表情に、呂東萊、『東萊博議』の「宋公楚人泓(おう)に戦ふ」中の一文を思い浮かべる。 「宋襄は宋に君(きみ)として、豈(あに)楚(そ)の強…

我が国近古の

四六時中、仕事がらみの資料に目を落としているわけにもいかない。時折、気分転換に我が国近古の文学などを読む楽しみは止められない。そんなものを読んでいることがバレると、ずいぶん古い人間に見られてしまうが、人間、堅苦しい表現に囲まれてばかりとい…

古往の歴史は

「古往の歴史は、これ現世界にして、今来の世界は、これ活歴史なり」 (佐藤一斎、『言志録』) まことに過去の事実は現在社会の事実であり、現在の世界が生きた歴史として未来を生み出していくのだな。その意味で、歴史の事実を明らかにし将来に備えなきゃ…

塗(と)に謀(はか)る

「塗(と)に謀(はか)る者は鄰(りん)に謀るに若(し)かず、鄰に謀る者は家に謀るに若かず」 (呂東萊、『東萊博議』) ここで「塗(と)に謀(はか)る」とは誰とも知らぬ道行く人に相談することを意味するのだろう。それより隣の人間に相談するほうが…

自ら戒(いまし)めざる者

呂東萊、『東萊博議』の「楚、弦黄を滅す」の條りにこうある。 「天下の禍(わざはひ)は、人を恃(たの)んで自ら戒(いまし)めざる者、其最(さい)に居(を)る。天下の辱(じよく)は、人の為に恃まれて而(しか)も保(ほ)する能はざる者、其最(さい…

その力を得る処

見解の相違に基づく争いというのは、特段学者に限らずあるものだ。朱子学と陽明学の争いに付き佐藤一斎はこう言っていたか。 「今の学ぶ者、宜しく平心を以てこれを待ち、その力を得る処を取るべくんば、可なり。」 (『言志録』) 「平心を以て」とは虚心坦…

低くきに付く

ふと、野城久吉の下記文言を思い出す。 「水の低くきに付くと云ふは、千古不磨の原理でありながら、潮流は水の流れに遡つて押し寄せて来る。然し潮がさして来る事実があつたからとて、水の低きに就くと云ふ原理のやぶれる訳はない。水は何処までも、ひくきに…

已むを得ざるに薄(せま)りて

「已むを得ざるに薄(せま)りて、而る後に諸(これ)を外に発するものは、花なり。」 (『言志録』) なるほどぎりぎりまで時が満ちて咲くのは花か。しかし、やむをえざるに迫っても、花さえ咲かず、外に発するものさえ枯れ果てているようでは困るな。我が…

自得を待つ

孟子の必ず事あり正す勿れ云々を念頭に、熊沢蕃山がこう言っていたか。 「勿正はしるしをいそがざるなり。勿忘は怠らざるなり。勿助長は才覚を用ふべからざるなり。百姓の農業をつとむる如く、職人の職をつとむる如く、いそがずおこたらず才覚を用ひず、常に…

農夫の陰に之が為に耕す

「天下の僥倖にして帛(はく)を得ること有る所以の者は、蠶婦(さんぷ)の陰(ひそか)に之が為に織るを以てなり。天下の僥倖にして粟を得る有る所以の者は、農夫の陰に之が為に耕すを以てなり。如(も)し天下をして悉く耕織(かうしよく)を厭ひ、其機(…

過失

「・・・過失もまた多く喜怒の辺に在り。・・・ (『言志耋録』) 人の感情、喜怒哀楽というが、喜怒の感情に支配されているときが多い。それはまた間違いを犯すリスクが高いときでもある。喜怒が起こるときは必ず過失が伴う可能性が高いことを承知しておか…

真を求むれば

これまた、呂東萊、『東萊博議』にある。 「・・・天下の事、固(まこと)に外(ほか)似て中実(ちうじつ)は然らざる者有り、其(その)似(に)を幸(かう)として其名を竊(ぬす)むは、以て一時を欺くべからざるに非ざるも、然(しか)も他日人(ひと)…

本を棄て末に徇(したが)ひ

呂東萊、『東萊博議』にこうある。 「天下の情(じやう)、其(その)速(そく)を見ざれば、未(いま)だ其(その)遅(ち)を見る者は有らざるなり」 手っ取り早く、事がすみやかに進むのを見れば、我が身、遅遅として進まぬことを知る。 「賈區(かく)に…

寿にして康

休日、外出し、元気なご高齢の方々をおみかけする。コレだなあ。まことにご長寿にして健康、足らざるはなきような印象。 「飲んで且つ食(くら)ひ、寿(じゅ)にして康(かう)なり。足らざる無し。奚(なん)ぞ望む所あらん・・・」(韓文公、「李愿の盤谷…

権力者

「・・・我が日本は或(あ)る一部権力者の国ではない。故に継体天皇の詔(みことのり)に『宗廟を奉じて社稷(しゃしょく)を危(あや)ふせざるを獲(え)んや』と云ふことがあり、又大化の詔に『天に則(のつと)り寓を御す』と云ふこともあり、又君民共…

隣保団結

昭和7年に権藤成卿は、市町村制につき『農村自救論』で、こう書いていた。こう彼が指摘する時まで「あらゆる曲折を重ね」、それからさらには現在まで輪を掛けて曲折を重ねたとはいえ、キホンは昭和7年に彼が指摘したこととなんら変わらないように感じる。…

皆我にまさる處

人様が気に入らぬときがある。それはやはり「我を以って人を見」ているときだな。それぞれの人に即してその人を見れば、そういう人だと思える。いろいろな人がいるからこそ万事調うわけか。 「・・・我(われ)を以て人を見候へば、不相叶(あひかなはざる)…

器用ニ備フル

「金銀銭貨ノコト、上古漢土ニハ亀貝(キバイ)ヲ以テ幣(ヘイ)トス。ソノ内ニ貝ヲ貴ブ。ユヘニ宝貨(ホウクハ)・財賄(ザイわイ)・売買(バイバイ)・貪貧(ドンヒン)ソノ余、金銭ニカヽルノ字ハミナ貝ニ従フ。コレ古昔(こせき)字ヲ製スルノ時分ハ、…