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よろづ天道まかせで

本を棄て末に徇(したが)ひ

呂東萊、『東萊博議』にこうある。

「天下の情(じやう)、其(その)速(そく)を見ざれば、未(いま)だ其(その)遅(ち)を見る者は有らざるなり」

手っ取り早く、事がすみやかに進むのを見れば、我が身、遅遅として進まぬことを知る。

「賈區(かく)に坐する者の、粟(ぞく)を一日の間(かん)に得るを見れば、則(すなは)ち回(かへ)つて農夫終歳(しゆうさい)の労を視て、其(その)遅(ち)に勝(た)へずとす。」

「賈區(かく)に坐する者」とは商人のこと。農夫が一年苦労を積み上げ粟の収穫をみて、その遅いのに勝てないなと思ってしまうというわけだ。まあ人情というものだろう。そこで、

「功利(こうり)の説(せつ)興(おこ)り、変詐(へんさ)の風起(おこ)り、本を棄て末に徇(したが)ひ、競(きそ)うて富強の数を立談の余に収む」

ということになる。

とにかく速くに成功して利益を得ることをよしとし、そのためには変詐、つまり人を偽り力を行使するようになる。しかし、粟は農夫の遅遅とした労働なくして手には入らぬ。これが基本だが、そうした本は棄てられ、みな末に従うようになる。とにかくてっとりばやく利益が手に入るのがよくなるのである。

そうしてそれを競い合うようになる。農業なんぞやっているのが、ばからしくなるわけだ。

しかし、遅遅とした農夫の営みがなければ、社会は農産物を手に入れることはできない。本を忘れた社会は傾いていくしかない。