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よろづ天道まかせで

紙餅

もう4年くらい前になるけど、餓死する人が頻出して問題になった折に
https://www.dropbox.com/s/pmba0799x9boii0/sankei20120226-gasi.jpg?dl=0
飢饉と餓死の歴史を調べてみたことがある。

まあ、こんな世界ではあるので、役に立つ知識、考えさせられる史実も多かった。

もちろん、へえ〜、なるほど、そうなのか〜という話もあった。

佐藤信淵も『経済要略』で、そこで紙餅というものを初めて知ったんだけど、こう書いていた。

「昔在(むかし)天明年中に、奥・羽両州連年飢饉にて、人民餓死せること幾千万人と云ふことを知らず。然るに我家貧なりと雖も、幸に故紙多かりしを以て、乃ち此れを水に漬け、又此を蒸し、能く擣(うつ)て些許(すこしばかり)の糠(ぬか)こごめ(米ヘンにキツ(乞)の字)を調和し、餅と為して此れを食せしに、予が十二・三歳の頃なりしが、頗る飢たる時なれば、甚だ甘(うま)く覚へたり。此れより親族皆紙餅を食ふことを知り、村内六曲庵なる『一切経』、宝泉寺の『大般若経』を始め、儒書も悉(ことごとく)食て、一郷の男女六・七百人、終に餓殍(がひょう;餓死の意味)の大難を免るゝことを得たり。故に古(いにしえ)名将の城内に多く紙を貯るは深慮ありと云ふべし。」

書類、書物のたぐいが貯まってミニマリストとしては毎日ダンシャリに悩んでいるけど、いまの紙は洋紙だから昔の和紙のようには食えないだろうなと思い、名将のように深慮はかなわぬなあと思いながら、なにが起こるか知れぬ時代だから、いざとなったら食えるものはあるかと周囲を見回しながら考えたことがある。

天明の飢饉のときは、信淵の父が秋田藩蝦夷地開発の献策をして無能な藩老にうとまれ、秋田の地を追放されることになり、父と一緒に足尾の銅山を目指したころだ(足尾で父は銅精錬法研究中死す)。道中、累々たる餓死者をみながら、追放される父子。若き信淵、そうした人々を救済すべく経済学の研究に熱く志を抱いたころでもある。そうして、信淵、まだわずか12,3にして江戸に出て蘭学者、宇田川槐園(かいえん)の門をくぐるんだ。稀代の天才の活躍は紙餅で生きながらえたからなんだなあ。