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よろづ天道まかせで

無理解

権藤成卿は昭和6年、純眞社刊の『日本農制史談』で二宮尊徳についてはなはだ無理解なことを述べている。江戸も下がり、元禄以降となって、各藩、各地方で自地域振興の経済政策をたてるようになり、「民政の学者が輩出し」たにつき、その一人に尊徳も挙げ、こう述べている。

細井平洲の如き岡永松陽の如き立派な学者が出て、村々の独立自営を教へるかと思うと、他方には二宮尊徳の如き御用学者も出て、手前味噌を並べ、他村の迷惑をかまはず、自村さへよければ善いと言う方針も教へられた。当時各藩には此種の人物が輩出した。田中政臣の調べによると、その当時に全国に五十七八人も此種の大家がいたのであると云ふ。二宮尊徳もその中の一人であつたが、他の人々の名が隠れ、尊徳のみ名を伝えられるは、彼が現状肯定の御用学者であつた為に、明治時代に非常に重んぜられたからである。(169−170頁)

尊徳は政治向きの発言をするような人ではなかったという。

政治の現状を打破して根本的に社会を変革すべきとの主張の人間からは、御用学者にみえるのだろう。

周囲は、じぶんたちの都合で尊徳を右に置いたり左においたりする。戦後金次郎像を待ちかまえていたのは破壊であり、それは国家に利用された尊徳への反発だろうし、真説・二宮金次郎の舞台が「真に民主的な」尊徳像を真実として掘り起こそうというのも、尊徳を見る側の事情にすぎないと思う。

「村々の独立自営」や「根本的な民力自彊の方法を」説いた学者は明治政府と相容れなかったと権藤は言うが、尊徳はそういう考えを説いたばかりでなく実際に実践した人間でもある。空論家ではなかった。立派な学者であると同時に人々のために自立自主の社会経済を打ち立てるべく実践する実践家であったればこそ、政治的な主張を避けたのだろう。その社会的実践に専念した姿は、尊徳が実際に人々を救う取り組み、地域の振興の実現を第一にしていたからと思える。

尊徳の実践さえ、さまざまな障害にあったことはよく知られている。もし、時の権力と摩擦を起こすことがあるようであれば大原幽学のように自死に至るのほかなかったにちがいない。それでは達成すべき課題を放棄することになってしまう。