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よろづ天道まかせで

重金資本主義

権藤成卿、『日本農制史談』の「重金資本主義」の項を読むと、

○ 地方資金の中央吸収

といい、

○ 政府の公債発行から資本閥が確実に収得する事実

といい、今日と変わらぬ、またいつの時代にも共通する核心を見る気がする。

明治大官によつて立てられた法律制度は、土地と民衆とを切り分けて、金権乃ち富の力で支配者の地位を絶対に安固にし、政府の収入を豊にして、陸海軍を強くすることであつた。

我国古来の財政の根本方針は、徳川時代でさへも、入るを測つて出づるを制する方法であつた。これ、租税が物納であつたから、四公六民では田の坪刈をして、上納高を決定し、豊凶により中央と地方の歳入を調整する為であつた。しかるに明治になると、外国の財政学を真似て、出づる測つて入るを制することにした。飛んでもない理論を輸入し、豊凶に拘はらず一定の歳入を得んとしたので、租(地租の如きもの)も、税(地割り地価割等の賦課税)も、悉く改めて金納とする方針とし、その方が政府にも便利で人民にも便利だ、欧米各国は何処でも之によつて発達したと簡単に説いて、我国古来の物納制度を全廃した。しかして之を実行する為に、明治七年地券証を発布し、土地の所有権を認め、また之を抵当として金を借りることをも公認した。

我国古来、土地には所有権を認めず、従つて小作権もなく、唯だ土地の利用者に耕作権能を認めた。但し、耕作権能は利得を伴う処から、之を譲り受けて土地を兼併する者もあつたが、制度としては之を公認せず、地方々々の政治の寛厳により、事実上の問題として、耕作権能の譲渡を黙認したに止まる。即ち代官地や新潟或は東北地方の如きは、土地の兼併が事実上行はれたる処多く、随て土地兼併の富豪も相当にあつた。酒田の本間は、庄内藩の御用を仰せ付かり、貸金を巧にしてあれ程に蓄積した。

利のある処、制度も往々無視される。そこで事実上の土地兼併を防ぐ方法として、耕作権能者に作付義務を負はした。土地の耕作権能者が作付義務を怠るときは、土地を没収し、もし何等かの無理があつて、作付義務を怠るときは、所払ひ或は体刑をも加へた。そこで政治の腐敗せぬ処では、自作する以上に土地を兼併する者がなく、よし名代人の名義で多少の土地を兼併しているとしても、深く注意して小作人を保護し作付培養を慎んだものである。故に小作人にしても喜んで作付義務を実行したのである。明治となり、土地所有者が昔の田租を一括して之を小作料として取ることになり、然も民法に依る契約の自由は、逐次に小作料を増加して、今日の搾取を、法律に保護さるゝこととなつた。

しかるに明治政府は欧米を真似て、大農制度などを夢み、また土地の兼併を陰に助長して、外国の如く我国にも富豪大地主を作るを裏面の方針とした。某大臣は酒田の本間を国宝だと賛美したことがある。

西南戦役が起ると、明治政府は財政難に陥いり、公債を富豪に引受けさせ様とした。その時の富豪の要求によつて、地価を五年毎に改正する予定を無期延期にした。そこで假令ば明治七年の一反二十円標準を、米価が一石四円の算定から五円となり十円となつても変更されぬことゝなつた。之が為に土地所有者は非常な利得をした。従つて地主は借金して安価に土地を買占めると、忽ち土地が騰貴して財産が倍増するから、土地の投機熱が盛になり、特に新しき銀行の金融機関が設けられて、土地を担保に取つては其収利を図り、倍従十百の勢を生じ、その弊害が益々激しくなつた。此の勢は明治大正を通じ、政府財閥の一貫した財政策であつた。今ま農工銀行や勧業銀行を創立する時の大銀行家の演説等を見ると、一反の土地が百円する時、米の収穫高は十円か二十円であるから、商人が其農産物を取扱ひ一割利益を取つても、一反からの商業利得は一円か二円に過ぎない。しかるに土地に対して金融することになると、其価額が百円であれば、一割で十円取れ、地価が千円しだせば百円取れる。地価が高くなるは、即ち国富の増加であつて、誠に喜ぶべきことだから、文明の当然の賜物である。だから金融機関を十分に発達せしめて、金融業者は金融業者として利益を挙げ、商業家は商業家として利益を挙げ、少しも一国の資金を死蔵せしめぬやうにせねばならぬと、極めて俗悪な重金資本主義を説いたのである。かやうにして農地に対する金融機関が設立され、土地に対する思惑が盛となり、地価は騰貴して、大正年中には一反が二千円も三千円もする処もでき、随て金融資本は極度に農村と農村人を搾取することになつたのである。

かくの如き金融機関によつて吸収した農村の資金は、保険や貯金は悉く中央に集積され、それを目あてに明治政府は、その窮乏せる財政を切廻はす為め、絶へず公債を発行したのである。だから明治政府の莫大な公債を消化さすには、かくの如き地方資金の中央吸収策を取らねばならなかつた。その政策の最初の理想では、地方資金が一年に二回吸収し得ればよいとされていたが、後には次第に増長して、年四回の回収を策し、遂には年六回の運転吸収を理想とするに至つた。これ桂内閣時代の隠れもなき財政金融の方針であつたのである。かくして、金融財閥が政府の保護を受け、また政府に要請しつゝ、巨大に発育したのである。そこで資本閥は公債の名義で政府に金を借す間に、国の租税収入より確実に収得する昔の御用商人の様な特権を獲得したのである。借据(モラトリアム)か徳政か、将た永久に金利の獲得保護か。そのいづれに帰結するかは、今日の大問題ではあるまいか。