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よろづ天道まかせで

銭六文

相応の歳となり、老境に備えたカネもなく、年金などもあてにはならぬ現実に、先行きどうするか、不安を感じるがマア仕方ない。カネがあってもなくてもひとにして変わらぬ事情もあるだろうと思うことにしている。

西鶴の「好色盛衰記」巻の二に、揚屋に投銭にいくカネ持ちの話がある。

人の心の替るが世の中、寺社に末代残る石の鳥居を立るも、女郎狂ひの当座の楽みも、さのみ替る事なし、何れにしても極楽へ持つては行かず、四十九日の道中は銭六文で済む事なり。

なるほどと。

しかし道中、六文で済むにしても、いつその道中が始まるのかわからんところが難題だ。死ぬ日がわかっていれば手元のわずかなカネでも計画して使えるが、いつかは定かではない。意外に嫌われ者であるかもしれず、長生きしてしまうかもしれない。六文さえ使い果たすようではこれまた困る。