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よろづ天道まかせで

当たらぬ事

なんであれ外国の事、教えを尊重し自らはダメとする心性は、昔なら儒学者がチャイナを尊重し、拝跪した風情であり、近代以降は欧米だ。
しかし、我が国のアイデンティティを強く自覚する考えもあった。

日本も昨今のていたらく、ほんとうにこの暴虐な世界情勢のなか生き延びたいのであれば、よほどの覚悟で自らの意識に目覚めなきゃならないよね。

「異国の事は異国にしては理ありといへども、悉(ことゞ)く我朝(わがてう)に庸(もちひ)んとしては多く其理(そのり)に当らず、武門の義は農人に通ぜず、出家の理は町人と同じからず、是を知らずして動(やゝ)もすれば天竺(てんぢく)の理屈を日本に引出(ひきいだ)し、唐人の法式(はふしき)を本朝(ほんてう)の格式となさんとするものあり、是等(これら)は彼株(かのくひぜ)[引用者注記:引用元の「通俗経済文庫巻9では彼杭とし読みも「かのくひ」としているが、株の「くひぜ」が正しいと思われる]を守るといふ愚人(ぐじん)の譬(たとへ)なり、万物其象(そのかたち)異なれば其理(そのり)異なり、諸国風俗異なればその掟(おきて)亦(また)異なり、・・・」
(河田正矩、『家業道徳論上』、元文五年)

「・・・しかる時は腐儒売学の徒の青表紙[引用者注記:儒学経書(けいしょ)を指す]の中より、偶(たまたま)求得(もとめえ)たる道理は日本我朝(わがてう)の掟とせんには、闇の夜の礫(つぶて)にて当らぬ事のみと心得べし。」
(河田正矩、『家業道徳論中』、元文五年)