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よろづ天道まかせで

もれさりて残れるはかすのみ

おそらくは大事なことが書いてあるにちがいない書物を読んだり、教訓にあふれた人様のお話をお聞きしたりするが、どうもどんどんざるからもれて、残るものがないようなアタマなのだなと思うことがある。

そういえば、二宮翁夜話の福住正兄(ふくずみまさえ)による自序は、こう始まっていたなあ。

「おのれ翁(おう)のみもとにありしこと七年(とせ)なれば、折(おり)にふれ、翁の論説教訓をきゝたること、いと多かり。洪(おほい)なる鐘(かね)も、ちいさきしもともて、うちたらんには、その響(ひゞき)かすかなるを、いかにかはせむ。そのうへに、おのが耳は、世に云ふ、みそこし耳にしあなれば、道(みち)の心の深遠なる甘味(うまみ)なるは、皆(みな)もれさりて、残(のこ)れるは、かすのみなり。・・・」

福住正兄のような尊徳の高弟にして、ずいぶん謙遜な言い方だけれど、それだけ尊徳の教えが偉大ということであるのだろう。

ここで、「しもと」とは若い小枝をいう。尊徳の教えは大きな鐘のようなもので、小枝で打っても響かないという意味かなあ。「みそこし耳にしあなれば」、とは、たぶん、みそをみそこしでこすとカスしか残らず、そうしたカスをみそっかすといってものの数に入らない者のたとえでいうわけだけど、そんな耳で大事なことを聞いてもカスしか残らないような耳だといっているのであろう。

しかし私たちは福住が夜話をまとめてくれたので、おおいに勉強になっている。じぶんの場合は、残れるかすを読んで、それさえアタマからもれていってしまうけれど、何度も繰り返し読むうちに、そうかなるほどと納得する経験ができることを期待している。