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よろづ天道まかせで

臆断

各種メディアに触れていると、そこを飛び交っているのが、所詮はあれこれのプロパガンダにすぎないと感じる。そんなものに付き合っていると、かえって、柳田国男が、「郷土研究ということ」で、

「我々にはとにかく臆断の哲学はない。人を教えて信ぜしめようとするような有難い新発見もない。・・・誤っておるおらぬは手製の目安というものを持たぬから、これを判別しようとはせぬのである。・・・」

と述べ、現実を「できるだけ精確に見ておこう」とする抑制的な姿勢をみせているが、その意義に気づかされる。

つまり、宣伝的の言説に触れるほど、すでにある臆断や手前味噌な判断基準で都合のよい議論を騒ぎ立て、「教えて信ぜしめ」ようとする方々の本性が分かってしまうというわけだ。

おおむね、ふつうの人間は、いいとか悪いとか是非を説く人間に限って、なるべく責任を負わぬ位置に自らを置いて、うまいことしようとしているだけということは知っているから、現実は状況や相手によって臨機応変、歌舞伎、『助六』にも、「兵道常ならず、敵によつて変化すとは、三略(黄石公作、中国兵法書の一つ)のことば。相手によつてあしらひやうが違ふ。来(きた)つて是非を説く人はこれ是非の人」とあるだろうと、是非の人の、つまらぬ言説には動かされぬものだ。

事実こそが重要なんだな。ネットの時代、目先の是非はうまくあしらっておきたい。