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よろづ天道まかせで

心眼心耳

松尾芭蕉のいわばスポンサーで蕉門俳人杉山杉風につき、村上鬼城は「杉風論」を書いているが、そのなかに、

「凡そ事物を見聞するに誰しも耳目を以て見聞すると思ひ居れども、実は、一、耳目をもつてすると、二、心眼心耳を以てすると二つあり。
而して人によりて其各々の一つを選むものと、二者を共に採るものとあり、この二つの見聞法中、耳目の見聞、素より誤れるにあらずと雖も、乍去(さりながら)、耳目の見聞をして、いよいよ進んで事物の本体に到り、例えば正鵠を得せしめ、乃至(ないし)肯綮に当らしめんとする時、総じて事物の骨髄に徹せんとする時は、最早、耳目の見聞施すに処なく、其錐(すい)も穿ち難き処に至れば、ただこれ心眼心耳あるのみ。・・・」

とある。
私たちは無意識に、押し寄せるすべての音を選別して聞きたい音を聞いているにちがいない。眼が見る場合もそうであろう。事物の本体が捉え切れているのではないと思う。やはり心を働かせなければ、事物に迫りきれないようだ。しかしこの心の陶冶、生半可なものではないのだろうと、平凡な人間は想像するだけ。