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よろづ天道まかせで

皆己れを利せんが為

かつてであれば中国、昨今であれば欧米か、文明も早くに開け、そこにはよろしき教えがあって、ひとによっては崇拝しもし、尊重もするのだろう。しかし、それほど立派であるなら、その社会や政治経済の有り様、まことにすばらしいと思いきや、どうやら、さにあらず。特別、みくにぐせを気取るわけではないが、文明の進展によって人間性が進歩したとも思えず、遅れた我が国人民の風尚のほうがまだましとも感ずるときがある。
そういえば、安藤昌益は『統道真伝』で「漢土の国」に言及し、こう言っていたな。

「・・・其の心意は亢(たかぶ)り、為人(ヒトガラ)は尺(たけ)六、七尺、或は五尺、強力・勇猛にして色に泥(ふけ)り、荒婬なり。その心術は甚だ巧み深く過謀なり。儒者は己れが国を称して中華と号すれども、皆(みな)中気を過ぎて、亢知・工慮にして、聖人という者起り理・似・貌・象を以て文字を作る。問術を始めて天文・地理を察すと言いて自然(ひとりする)一体の転定(てんち)を二に分ちて上下を立て、己れは上(かみ)に立ちて衆人を下(しも)と為し、五行にして一真なるを五品性と為し、男女にして一人なるを五倫と為し、凡て一心なるを二心と説く。進退して一気なるを陰陽の二気と為し、転定・男女は一体・一人なるを三才と為し、皆己れを利せんが為に自然(ひとりする)真道を妄乱す。自然(ひとりする)直耕の転道を盗んで耕(たがや)さずして衆人の直耕を貪食し、上に立ちて奢賁(しゃひ)・華美・遊楽を為し、女楽に泥(ふけ)り、学問を以て衆を誑(たぶら)かし、不耕貪食の多く成り、終に兵乱の始りて転下の転下を以て吾国・他国とに為し、転下を争い国を奪い奪われ、合戦・争闘して止むこと無し。且つ体を土石の中に埋めて自然に隠れ具わり、気を以て妙用を尽し、掘り採(と)ること能わず、掘り得べからざる金銀を掘り采(と)り、通用と為し、奢り・華美・妄欲・迷乱の基(もとへ)を為す。万悪は此の一欲に始まる。乱世の止むこと無きは、此の金銀の欲に迷い、奢・華・遊を願う故なり。此の余悪、諸国・万国・万嶋に溢(あふ)れ、金銀の迷欲の為に乱軍せざる国無し。是れ皆、漢土の国の中気を過する亢知(こうち)に生れて、此の妄悪を為す。故に万国の欲悪の本(もと)は漢土の国に始まる。万悪の乱世の太本は金の一種にして、金を用うるの聖人に始まる。己れ一生の為めに盗道を寛(ひろ)くし、永永に万国の乱欲と争世を始むること転下に又と無き大悪なり。故に末世・万国の諸悪は其の悪を糺(ただ)すに及ばず、悉く聖人の失(あやま)りなり。欲の始めは金銀、盗の根は不耕にして食い貪(むさぼ)り、転定(てんち)の道を盗む。此の欲と盗の二悪は聖人の之れを始むるなり。・・・」
(安藤昌益、『統道真伝』、下、岩波文庫、pp.35-36.)

立派な議論を駆使する社会は、それを成り立たせるだけ立派でないのかもしれない。外国のよろしき高説を以て自らを貶めるのは止めておきたいなと思う。
そういえば、本居宣長も『玉くしげ』でこう言っていたなあ。

「然るに近世(きんせい儒者(じゆしや)など、ひたすら唐土(たうど)をほめ尊(たふと)みて、何事もみな彼[の]国をのみ勝(すぐ)れたるやうにいひなし、物体(もつたい)なくも皇国(くわうこく)をば看下(みくだ)すを、見識(けんしき)の高きにして、ことさらに漫(みだり)に賎(いや)しめ貶(おと)さんとして、或は本朝は古[へ]に道なしといひ、惣じて文華(ぶんくわ)の開(ひら)けたることも、唐土(たうど)よりはるかに遅(おそ)しといひ、或は本朝の古書(こしよ)は、古事記日本紀といへども、唐土(たうど)の古書にくらぶれば、遙(はるか)に後世(こうせい)の作(さく)なりといひて、古伝説を破(やぶ)り、或は日本紀の文(ぶん)を見て、上古の事はみな、後(のち)の造(つく)りことぞといひおとすたぐひ、これらは皆例(れい)のなまさかしき、うはべの一(ひと)わたりの論(ろん)にして、精(くはし)く思はざるものなり。」

うわべのひとわたりの論は、それはそれとしてお付き合いすればよいか。「皆己れを利せんが為」の議論であるかもしれぬから。