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よろづ天道まかせで

金銀財用をあたふる

「・・・人に分(わか)つに財を以てするを恵(けい)と云ふ。世人是を仁なりとし徳なりとす、受(うく)る者大に悦(よろこ)べり、人に教ふに善を以てするを忠(ちう)と云ふ、世人是をそねみそしり、教へらるゝ者は悦(よろこ)びず。甚(はなはだ)しきは怒れり、人に金銀財用をあたふるは小恵(せうけい)なり、しかれども其人悦び世のほまれ大なり。人に善道を教ふるは忠なれば、恵よりも大なり、しかれども教訓せらるゝ者、たからの十が一も悦びず。又世俗のそしりを得ることあり・・・
(『集義和書』)

カネやモノをもらうのは誰でもうれしいものだ。与えるほうも得意だ。恵み、恵まれるのはしかし、小さな恵。なかには恵み、施しの類はごめんだと見栄をはる向きもいるが、困っているときはありがたい。政治家がカネをなんとか手当で配るなんてのも人気取りになる。

だが恵むことより、忠のほうが人のためを思うものだ。忠とは、心の真ん中、心の中ということだから、忠告とは心の中を告げることだ。その人を気遣い忠をなすのはしかし、蕃山がいうように難しい。人になにか言われて悦ばないものだ、人間は。ホントにそうだなと思っても心のなかではムッとしている。それがいやだからみな、人様のことはあまり云わなくなる。自分からみれば、衷心よりアドバイスしてくれる人を持つことがなくなる。

そうして当たり障りのない関係のなかで、善の反対側の悪がはびこるということになるのかな。