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よろづ天道まかせで

無翼而飛、無足而走

「・・・昔神農氏没、黄帝堯舜教民農桑、以幣帛為本。上智先覚変通之、乃掘銅山、俯視仰観、鋳而為銭。故使内方象地、外員象天。大矣哉。 銭之為体、有乾有坤、内則其方、外則其円、其積如山、其流如川。動静有事、行蔵有節。市井便易、不患耗折。難朽象寿、不匱象道、故能長久、為世神宝。親愛如兄、字曰孔方。失之則貧弱、得之則富強、無翼而飛、無足而走、解厳毅之顔、開難發之口。銭多者處前、銭少者居後・・・」


「昔神農氏没して、黄帝堯舜民に農桑を教へ、幣帛を以て本と為す。上智先覚、これに変通し、乃ち銅山を掘り、俯視仰観して、鋳して銭を為(つく)る。故に内方をして地を象(かたど)り、外員をして天を象らしむ。大なるかな。銭の体たるや、乾あり坤あり、内は則ちそれ方、外は則ちそれ円。その積むや山の如く、その流れや川の如し。動静時あり、行蔵節あり。市井便易、耗折を患へず。朽ち難きは寿を象どり、匱(とぼ)しからざるは道を象どる。故によく長久にして世の神宝となる。親愛なること兄の如く、字(あざな)して孔方と曰ふ。之を失へば則ち貧弱、之を得れば則ち富強。翼なくして飛び、足なくして走る。厳毅の顔を解き、発し難きの口を開く。銭多き者は前に處り、銭少き者は後に居る。」(魯褒、『銭神論』)


これは『銭神論』の冒頭あたりにある文言。実に意味深遠な指摘。簡潔ないい文章である。

銭の円形すなわち○は天、そこに包まれる□は地。別に表現しなおせば、乾坤。乾坤一擲(けんこんいってき)という言い方は天地を賭けてのるかそるかの大博打をする意味だが、乾坤とは陰陽の意味でも使われる。天地を象徴する貨幣を使うのは勿論、人。天・地・人はなにかよきものを生み出す能力や、難しく言えば、能産性(ability, capacité)を元来もつものとして考えられている。人がこの天地人すなわち三才(triple talent)の動きと発現manifestation(すなわち陰表[negative manifestation]・陽表[positive manifestation])を俯視仰観し、趨時に変通して
(時代と状況の変化に柔軟に対応して)、卑金属たる銅を鋳造して銭となしたわけである。

そこには貨幣という力能の、人や物を動かし、交通せしめる力の、三才による創造が暗示されている。つまり貨幣の鋳造は我々の力能puissanceの社会的拡充extensionを示しているわけ。マルクスは金(ゴールド)が生まれながらに貨幣であったといっていたが、そうではなく、ある状況で貨幣素材として選ばれたにすぎないこと、貨幣の社会的成立が先であることも理解できる。

その貨幣は、流れは速やかであり、必要な時に動きまた止まり、その流通や退蔵には節度があって、市場において便利に使われる、また時間に関連して(IN RELATION TO TIME)つまり、時間が経っても朽ちにくく、長命の、すなわち持続性の象徴ともなると。ここには貨幣が販路を拓き、資源に動きを付けることがその利として説かれていると同時に、それが権力ともなる弊も指摘されている。

なによりも、通貨は活動であると捉えるゲゼルという独逸の経済学者の指摘も興味深い。「貨幣は断じて統計ではないし、動的なシステム(テオフィール・クリステン)である。通貨は活動(Tat)なのであり、物質ではないし、今日まで間違って金本位に人が期待したような貨幣をなす金属の自動的副産物でもない。」(Silvio Gesell, Gesammelte Werke, Band 17, S. 279-280)