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よろづ天道まかせで

ころ欠け

ボンヤリ歩いていて、道に転がる石ころに何の気なしに目がとまる。なんで「石ころ」って言うのかな、と。

そういえば、かつて戦前、戦中、敗戦後と商工省で物価統制の実務を担当されていた兼坂隆一さんは、『転がる石』という回想録を書かれていました。とても興味深い本でしたが、どのように、またどちらの方向に転ぶかわからないが転び始めると急な転石を書名にしていました。

なぜ転がる石なのか。世の中全体の推移と個々人の歴史。個々人はまるでころころ転がるような人生だからかもしれないからかなと思う。

喜多村信節は、石ころの「ころ」につき、「ころとはころころとまろぶもの故に名づくるなるべし」といい、まろぶ(転がるの古語)ことに小児が小石を石ころということの意味を与えています。

転がる石は小石です。江戸時代は三貨制で、江戸は金、大坂は銀本位でしたが、庶民は銭を使い、金銀にはあまり縁がなかったけど、銭のことを「ころ銭」っていいました。

小石やころ銭はとるに足らぬ存在。そうした存在ほど転がる。そうして転がれは、銭は欠けて傷む。欠けて傷ついた銭は悪銭(ビタ)といった。いわゆる「びたせん」です。

このびたせん、撰銭(えりぜに)の対象になった。支払い時に忌避されることがあったそうな。

「おかし男 銭えりける女にいへりけり うしろめたくやおもひけん 我ならでこと(ママ;ころの誤植)銭えるな かたなしや ころかけとらぬはつとなり・・・」(喜多村信節)

ぼくら転がるように人生を歩む。まるで小石やころ銭のように。そうして、ころ銭が銭えりの対象になるように、選り分けられて、場合によって人々から忌避される。

ころ欠けは採らぬが世間ということか。