a1ma1mブログ

よろづ天道まかせで

一河の流れをくみ一樹の蔭にやすむ

例えば私が5人の人とお会いする。彼らの持つ私への印象はそれぞれよく似てはいても微妙にみな違うはず。5人が独自な曲がり具合の鏡でそこに私の印象が反響し、写しだされているとすれば、微妙に異なるあたしの5種類の印象は、彼らの個性であり、私に責任はない。むしろ私は5人に分身した私の印象をそれぞれに残しているともいえる。

だからこそ、どんな人にどのような印象を残したいかに敏感でなければならないとも言えるし、私を含めた6人がそれぞれに曲がった鏡で写し合うかたちの視界の相互性が、私たちの関係のおかしみでもあり、楽しみのもとであるのかもしれない。

しかし写し合いの繰り返しのうちに、他者一人ひとりの独自なゆがみに影響された印象は、おおむね、共通な、「信」に変じる。その人の印象の蔭にある徳性、人柄が次第に浸透し、信頼、すなわち、「その人の言に頼る」ということができるようになっていく。それは親しくなるということでもある。

「それ聖人のをしえに、信あれば四海は不残(のこらず)兄弟なりと、また聖徳太子の書(かゝ)れし史(ふみ)に、一河(いちが)の流れをくみ一樹(いちじゅ)の蔭にやすむも、みなみな此世ばかりの縁でなく、前(とき)の世よりの約束ぞと、教給ひし事を思えば・・・」(為永春水、『春色辰巳園』)

私たちは共同の関わりの内に連帯の契機を有している。それを因縁と考えるかは別にして、四海を残らず兄弟とするは信なのであった。

しかし、信なくば立たずと言うが、容易に信を得ず、したがって立てぬということがある。私たち、たまさかの一期、共に一河の流れを汲み一樹に休んでも、人の言の約したこと、相互に残し合った印象とその言葉は時に耐えていく可能性がある。な
かには一時に失われるものもあり、また長く保持されるものもある。つまり信は守りうる言、すなわち偽りなき約束のうちにあるということか。

容易に人に残した我が印象の消え去るのであれば、我が身に信なく、立つこと能わぬ。