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よろづ天道まかせで

一個人の味を知らず

福沢諭吉は『文明論之概略』で、日本の人間交際では「独(ひとり)一個人(いちこじん)の味を知らず」と言っているが、好きな言葉だ。

「日本の人間交際は、上古の時より治者流と被治者流との二元素に分れて、権力の偏重を成し、今日に至るまでも其勢を変じたることなし。人民の間に自家の権義を主張する者なきは固より論を竢(ま)たず。宗教も学問も皆治者流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず。乱世の武人義勇あるに似たれども、亦独一個人の味を知らず。乱世にも治世にも、人間交際の至大より至細に至るまで、偏重の行はれざる所なく、又偏重に由らざれば事として行はる可きものなし。」

治める者と治められる者のふたつに分けられて、その一方、つまり権力ばかりが重んぜられて偏重されている。個人の自立が大事と言ってしまえばそれまでだが、統治される者が己が権義を主張し確立するには、なによりも独り一個人の味を味わえているのかどうかだと思う。今日、政治的権力にとどまらず、いろんな権力があるのかもしれない。たとえばマスコミなど、人々を操作する対象にしているかの感があるようにみえる。口に入るものから身にまとうものまで、アタマのなかの考え方、好み、好奇心の向かう先まで、マスコミという権力に籠絡されて、人は己が生活や人生を自存し自立したものとして味わうことができないでいるのではないかと思う。他者によって単に扱われる対象から抜け出すために、個人の味を味わう姿勢をなくしたくないものだと感じている。