a1ma1mブログ

よろづ天道まかせで

足助重春

テレビで吉野を取り上げたCMが流れている。そうか、いつか吉野の桜も見てみたいものだと思いつつ、南北朝のころの南朝だなとも思う。なんだか歳を重ねきているので、南朝方で、後醍醐天皇に従い、六波羅に捕えられ斬首された足助三郎重範の子孫、重春の一首を思い浮かべる。

「老(おい)となる身をば嘆かで行く末のあらましをのみいそぐはかなさ」

ここで「あらまし」とは「あらまほし」だそうで、将来への希望や意図をいうそうだ。だんだん歳を重ねていくので、ほんとうはじぶんの事をかんがえなくちゃならんのに、将来はこうなって欲しいと社会への希望ばかり考え、微力を顧みず、その実現に従事する、それがはかないと言っている。じぶんの場合、若いときはじぶんのことしか考えなかったかとも思う。それが次第に歳を重ねてきたので、少しは社会やその将来への関心、あるいは現状に危機感を抱く人たちの言うことにも目が向くようになったのかもしれない。重春同様、なんだか急く気持ちもあるのかなあ。そうであったとしても、なんらの力があるでなし、我が身、老いるぞ、それを嘆けという声もどこからか聞こえてくるか。