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よろづ天道まかせで

よその事

一年前の震災の日が近づいてきた。この一年、なによりも問われたのはモノを感ずる力であったのだろうと思う。

「又人をあはれとおもはする功徳をいはゞ、まづ民(タミ)をおさめ、国をまつりごつ人は、なべての世の人の情(コヽロ)のやうをくはしくあきらめ、物のあはれをしらではかなはぬ事なるに、大かた貴(タカ)き人は、いやしき下(シモ)ざまのものゝ情(コヽロ)のやうを、くはしくわきまへしる事うとし。すべて、とくいかめしく、勢(イキホ)ひある人は、なにごとも心に物のかなふゆへに、身にうき事をしらねば、よろづ思ひやりすくなくして賤(イヤ)しく貧(マヅ)しき者の、つねにおもひおほき事をも、をしはかりてあはれと思ふ心のつかぬもの也。それも、やまと唐(モロコシ)の文共にかきしるしたるをも見、又をのづから聞つたへても、大方はしらるゝ事なれども、さましく、己(オノ)がみのうへに思ひしらぬ事は、見ても聞ても、猶よその事におもはれて、深く心にはしまぬ物なるを、・・・」(本居宣長、『石上私淑言』、巻三、雄山閣文庫、昭和12年、p.116.)

社会的処遇にかならずしも恵まれてはいない若い人たちをボランティアに差し向けた、その感受性の有り様はすばらしい。政治家や官僚のごとき、なにごとも心にかなう、身に憂き事もないような方々の、事に際して思う気持ちのつかない様を見せつけられた一年でもあれば、よけいに若者たちの気持ちに感じいる。