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よろづ天道まかせで

距離

努力を重ねて学び、評価し来ったものとの距離を感じ始めるときがある。それを人生においていちはやく感ずる者もあれば、遅れに遅れ、人生の黄昏においてそうなる人もいよう。距離とは努力して近づこうとしたものからの逸脱であり、歪み、曲がりに由来するのだろう。それは紛れもなく自らの内側から発している。

「彼が先進国であり、我が後進国である以上、彼に学び彼に倣ふに於いては、彼の如くすることが必要であり、彼の如く考へ思ひ感ずることが大事である。しかし、それから出た結果は、彼の崇拝となり、而して模倣となり、追随となり、遂には盲従となるに到るのである。が、これらも努力して始めて達し得る境である。而して撓み、歪み、曲る時にあつては、それは自覚的態度に発するにせよ、或は無意識的態度に出づるにせよ、それより起るものは、程度の如何は措いて、彼と甚だしく距離のあるものである。・・・」(尾上八郎、『日本書道と日本精神』、昭和15年)

距離とは価値を感じさせるものだ。独自な達成のあるを予感させる。