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よろづ天道まかせで

無音の教え

「父母の膝下に同胞(はらから)と団欒した幼時の思ひ出に、まづうかぶものは、見なれた額や掛物、手なれた器である。これ等に依つて朝な夕なに受けた無音の教を思ふ時、生活の中心は実に茶の間である。ここの生活を真実にしなければ吾々の一人一人真実者たる事が出来ない。」(奥田正造、『爐邊閑想』)

いま、茶の間というのはないんだろうな。無音の教えというものも、だからないんだろう。語らずともそこにあって、じっくりと染み込んできた教え、それは記憶とも言ってよいのかもしれないが、昨今は、有音のうるさいばかりの教えが耳に触り、生活は記憶に残らない。