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よろづ天道まかせで

修養

奥田正造は『爐邊閑想』(文部省教学局編纂、日本精神叢書二十七、昭和15年)で、茶道について語るにつき、こう言っていた。

「・・・我が身の訓練を主とする時、精巧な文明の利器よりは原始的のものの方がありがたいと思ふ。不便であるべきものを不便と感ぜず、之を行使して自由な自分を見出すことが修養である。由来簡易なものには故障が少い。従つて使用に事欠く時がない。不自由に馴れたものが文明の利器を得た時は唯感謝あるのみであるが、便利に馴れたものが一朝その器を奪はれると不平を起こす。運ぶに労苦あれば用ふるに無駄をしない。・・・万変(ばんぺん)に酬作(しうさ)すべき方法を一々に教へんとすれば、設備をいかに多くしても猶不十分の歎きを招くに過ぎないが、その根抵となる心の働きを訓練するには、むしろ設備の乏しいことが器を働かす工夫を増す。・・・」

たしかに生活は便利になった。原発事故による節電で、駅のエスカレーターが止まっていると、それがなかった頃のことをとんと忘れていたことに気づく。同時に、便利になるほどに失っていたものもあるのだなと気づくべきか。それは不便ななかでの心の働きの訓練ということだろう。世の実状はすべて変化するが、それに応え、むくいていくことに心を使う修養の大事さを、原発事故が教えてくれたとすれば、節電の労苦にも皮肉なことだが、意味があるだろう。そうしてさらに、故障の少ない簡易なものを尊重する考えの重要性にも気づくことができれば、しめたものだ。複雑で管理するのが難しいものほど、使用に事欠くことが多いからだし、故障したとき甚大な被害を覚悟しなければならないものは、いっそう注意しなければならない。

不便のうちに、己が自由を見出す修養を忘れた社会は、おそらくは文明の利器すら使いこなせないところに進んできてしまったのだろう。不便を好機とみて、修養やりなおしだわなあ。