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よろづ天道まかせで

言い訳

無欲につき蕃山は『集義和書』で、こう言っていた。

「・・・無欲ならば身代(しんだい)も続き難く、世間の務(つとめ)もいかゞ有るべきと思はれ候へども、無欲なれば身代もつゞき世間の務もよく成る事に候。奢(おごり)は陽の欲、しはきは陰の欲なり。」

ここで、「しはき」とはしわい(吝い)こと、つまりケチである意味、カネやモノを出すべきときにも惜しんで、けちけちするわけだ。これまた欲のひとつのかたち、陰の欲とはよくぞ言った。

人間、「真実に無欲」でないといかんな。しかしである。

「無欲をつくるは名根(みやうこん)の欲なり」

とも言う。ここでみょうこんとは人の評判、まあ名誉のことだろう。

つまり、

「用をも節せず、不時の備へもせず、わざとたくはへぬ様にし、仁にも義にもあらずしてゆゑなくつかひ施すを、無欲と申し候はんや。それは名根より生じて欲心のいひわけにこしらへたるものなり。欲心ある故に、人の吝嗇といふべきかとて、清白(せいはく)だてをするにて候。」

ということだ。人にケチといわれないために節約もせず、いざというときにも備えず、なにかを施すのは無欲じゃあない。清廉潔白と思われたいだけに「清白だて」してるだけと。まあ評判を気にした欲心のいいわけというわけだ。

蕃山は奢りも吝きも無欲も、

「三共(みつとも)大欲心にて候」

と言っている。

「君子の無欲といふは、礼儀にしたがひて私(わたくし)なき事なり」

と。

無欲より無私か、これはなかなかできるものではない。君子の君子たるゆえんか。まあ、我ら小人、なるたけ欲心のいいわけは拵えぬようにせなあかんな。