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よろづ天道まかせで

費え

費用といい、費えともいうは経済において要の観念の一つであろう。この費えにつき、熊沢蕃山は『集義和書』でこう問答している。

問いはこうである。

「費(ひ)の字を解して、たからとせざるなりと宣(のたま)ふは何ぞや」

と。
費の字を分解すれば、弗の字と貝の字になる。弗の字義は「ず」すなわち「あらず」、「しからず」であり、貝はたからの意味があるので、たからにあらずということを費えというのはどういう意味かと聞いているわけである。

これに、蕃山はこう答えている。

「上古には貝を以てたからとす、費の字弗貝の二字を合す、如心(じよしん)を恕とするの類なり、財散ずる時は民あつまるといへり、散ずるはたからとせざるの義なり、用の広きといへると意(こゝろ)相近し、財の字も貝にしたがふ。いにしへ貝をたからとせし故なり、古(いにしへ)のたからの貝はいづれの貝といふ事を知らず、後世金銀銭を以てこれにかへたり、堯の時天下洪水にて五穀不足のゆゑに、銭を作りて交易の助けとなし給へり。広く天下に用ふるのみ、・・・」

たから散ずれば民が集まる、散ずるということはたからにしないこと、散ずるほどに広く用いられると言っている。これまさに貨幣の基本を述べているように思える。堯の時代、五穀が不足して、これを天下に配分するにつき銭を作り、交易の助けとしたのは通貨としての貨幣の役割を重視してのこと。必要なモノを入手する代償に「たからにあらず」として「たから」を散ずる、それは財の入手者にとって費えであるが、同時に宝にあらずとして社会的な通貨としての用を果たしているということでもあるな。