ふつう「みやび」といえば上品で優雅なさまが思い浮かぶ。
しかし、神楽譜にあるという歌
「若きあれはみやびも知らず父がかた母がかたとも神ぞ知るらむ」
を見ると、ここで「みやび」は神に奉仕する意味で使われているというから、もっとわたしたちにキホン的ななにかを表しているみたいだ。
本居宣長は、『うひ山ふみ』で「すべて人は、雅(みやび)の趣をしらでは有(ル)べからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。」と言っている。物のあわれをしるとはわたしたちの「本たる道」を知ること、「神のめぐみのたふときわけ」を知ることなんだなあ。
たしかに「若きあれはみやびも知らず」であったなあと思う。