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よろづ天道まかせで

上見れば

うえのほうを見上げ、仰ぎ見ると、たとえば政治家なら、いかにも言葉は軽く、舌先三寸か、と思わせる。原発もゼロにするはずが、原発建設が進む。国民に信を問うはずが、自己保身のためか、その気はさらさらなさそう。このくには選挙の日だけは民主主義国だと思ってきたが、あまり見たくはないなあと感じるご人相の方々の独裁国家かもしれんなあと思ってみたりもする。

まあ、無力な下々は、腹が立つだけなので、なるたけ上のほうを見ずにいるか。

いやしかし、かつて平田篤胤は、世にいわれる、

上見れば及ばぬ事の多かりき
笠きてくらせおのが心に

という和歌を意識して、これに対して

上見れば及ばぬ事の多かれど
かさぬぎて見む及ぶ限りを

と詠じたという。

上をみてもどうなるものでもない、よろしく薄志弱行、ひたすら退嬰に陥って、笠をかぶって上など見ないようにしよう、上から大衆を操っているつもりのマスコミがわれらに似合いと考える芸人のおふざけをしかたなく楽しむふりして退嬰の日々がよろしいか。

そうではない。いかに及びがたいといっても、及ぶ限り、しっかりと、このくにのうえのほうを見つづけよう。それがどれほど醜くみえようとも。