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よろづ天道まかせで

天の一人を生むは

暑い一日だった。こう暑いとぶらぶら好きな散歩もできぬ。休日まで経済のことを考えたくはないので、クーラーを効かせて、趣味の読書。中国、人民大学の葛栄晋先生の議論にはいつも教えられるので、数年前のシンポジウムでの先生の議論、「明末清初の”実心実学”の価値観」を再読。明末清初の実心実学者たちが伝統的な儒学の価値観に挑戦し、修正した取り組みは今日、伝統的儒者の重農抑商が好まれがちで、そこへの回帰だけではこれからの重農主義の展望は出てこないだろうと感じる者には興味深い。

それはそれとして、そうした実心実学者のひとり、孔子の「書奴」でもなく、仏教や道教の「児孫」でもないと自認した李贄(りし)の一文に目をひかれる。

「夫れ天の一人を生むは、自ら一人の用有り、給を孔子に取りて後に足るを待たざるなり。若し必ず足るを孔子に待たば、則ち千古以前孔子無し、終に人為るを得ざるか」(『焚書』巻一、答耿中丞)

一人ひとりの人間が生まれてあるということは、それぞれに固有の用があり、価値があるということだと理解した。生まれながらに自主独立しているのが人間だと。孔子の教えを得て後に満足な人間になるというなら、孔子の生まれる前の人間はどうなんだと。当時としては革命的な観念というべきだな。価値判断は個人の理性がすることとし、主体的意識の意義を宣揚する。

清初に至り、ラジカルな君権批判を展開した黄宗義はまたの機会に勉強しよう。