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よろづ天道まかせで

明暮(あけくれ)渡世を分別

なかなか商売や仕事をしていてもなかなか稼ぎにならぬ。うまくいかぬ人生にまずしさ、不自由をかこつて、日々の明け暮れに我が身の渡世の損得を考え、なんとかならぬものかと思う人もいるだろう。

井原西鶴の『西鶴織留』第一巻には、そんな人間がふとした目のつけどころで、大金持ちになり成功を収める話がある。

明暮(あけくれ)渡世を分別するに、銭三十づつまうくる事の何にてもなかりし。或時宵(よい)に焼(た)きたる鍋の下に其朝(あした)まで火の残りし事、これは不思議と焼(たき)草に気を付けて見しに、茄子(なすび)の木犬蓼(たで)の灰ゆゑに火の消えん事をためして、是れは人の知らぬ重宝(ちょうほう)と思ひ付き、手振(ぶり)で江戸へくだり、銅(あかがね)細工(さいく)する人をかたらひ、はじめて懐爐(かいろ)といふ物を仕出しし、雪月比より売りける程に、是は老人楽人の養生、夜づめの侍衆の為と成り、次第々々はやれば、後には御火鉢御火入の長持灰(ながもちばい)とて看板出し、大分うりて程なく分限(ぶんげん)に成り、・・・

ここでは、鍋の下の灰に朝になっても火の残っていることに気づいたのが成功のはじまり。気づきとはなまくらな目をしていると、そこに宝があっても気づかないから、その人の眼力次第。フト、気づかせる眼はその人のそれまでの蓄積が磨いたものだろう。

目がきかぬじぶんは、これからきくように磨いておかねば・・・