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よろづ天道まかせで

駅亭

散歩を趣味とするようになって、距離というものに関心が出てきている。

地産地消ということがいわれ、日本近世の三里四方という考えが見直されている。端から端まで歩いて六里、中心から行って帰っても六里。およそ一日で歩ける距離で、これが地域の基本の広がりと知る。六里ということは24キロ。当初、現代人のなまった身体、その体力では歩き通すのはかなりホネだった。

最初は1時間で3.3キロぐらいだった。それがかなり歩き込んで、体力もつきなんとか4キロほど歩けるようになった。ということは三里四方を歩くには6時間必要で、途中で休憩も入れたりメシを食べたりしなきゃならないから、これに2時間足すと8時間。まあ、まる一日かかることになる。

権藤成卿は、『日本農制史談』で、人口が増え社会経済が発展した「鎌倉時代の民政」を扱った部分で、幕府が駅亭を整備した事実をこう説明している。

戸口の増加が進むに従い、遠方に移住せしめる必要が起つた。これが為に各地の駅亭に夫れ夫れの設備を設けた。駅は女の足で一日の行程、即ち約六里毎に一箇所、その中間に二ヶ所の亭を置くが標準であつた。而も駅には宿泊から食事の用意をしてあり、移住する者は身体さへ行けば、駅亭を遂ひ次から次へと無代で宿泊して晝食の弁当まで渡され、亭では安んで湯茶を供せられると云う方法が整ひ、九州の者が奥州へ迄も安穏に移住されたのである。

ここで女の足で六里ごとに駅を置いたのは合理的だなと思う。その間に二里ごとに亭があるのも、ちょうど一休みしたくなる間隔だ。昔の男の健脚の人は、日に十里くらい(東海道でいえば日本橋から戸塚の宿くらいか)歩いたそうだが、現代の我々は昔の女の足がよいところだ。

しっかりとした交通インフラの整備が鎌倉時代の発展の基礎にあることも上記からわかる。