a1ma1mブログ

よろづ天道まかせで

永常メモ01

天保の時代、幕府においても諸藩においても、改革が行われた。このとき藩政の改革で成功した薩摩や長州がそののち幕末維新期に活躍できたことは知られている。

例えば長州藩では村田清風が財政の緊縮と塩田開発による事業収益増で銀八万貫を超える藩債を整理し、薩摩藩では調所広郷がなんと250年償還という奇手を使い実質的に藩債を踏み倒した。

しかし、天保の改革の主役はなんといっても老中、水野忠邦である。彼の厳しい改革は江戸の人間にはすこぶる評判が悪く、悪人の最たる者のように評された。彼は老中職を勤めると同時に浜松藩の藩主でもあったから、藩の改革にも着手した。藩債の整理も薩摩の調所どころではない。「お断り」手法である。返さないことにしてしまうのである。

当然、権力を笠に着たこういう姿勢はよい評判をうるどころではない。

しかし、彼は、聞く耳はもっていたようだ。風来の、地域の経済再建請負屋とでもいうべき存在を呼びレクチャーをさせて、浜松藩で働かせてもいた。その人物が大蔵永常である。

彼を引き立てたのは最初、田原藩の渡邊崋山であった。画人でもあった崋山は永常を絵に描いている。下記がそれで、「門田之榮」に収録されている。

これは、06年に、「実心実学の発見−いま甦る江戸期の思想」論創社)という本に大蔵永常の項を書いたときに収録したもの。

渡邊崋山は田原藩の再建のために永常を雇い入れるわけだが、崋山の政治的失脚で、永常はお払い箱となる。その後豊橋に出て貧しい生活をしているが、忠邦が彼に助けを求めてくるわけ。主著「広益国産考」の末尾に、浜松藩 大蔵永常と記していることからも、浜松藩は彼にとって重要な場所であったと推測できる。

彼が遠州で何をしたのか、そうして浜松藩も離れ江戸に出て極貧のうちに人知れず死ぬまでを、幻視する思索の旅に出てみたいと思っている。

彼が諸藩にアドバイスした内容は、すべて藩の勝手向きに関することは焼き捨てたと本人が述べているので、「行政」に対する勧告内容を直接窺い知ることはできない。しかし、彼が書き続けた膨大な著述のなかに、それを窺い知るヒントがあるのではないかと考えている。