a1ma1mブログ

よろづ天道まかせで

心の疲労

昭和30年代といえば、31、32年の神武景気をきっかけに日本経済が成長軌道に乗った頃だよね。その頃、昭和30年前後から、農業については、なにかにつけて日本農業の曲がり角が言われるようになった。

農業の状況が悪かったわけではない。昭和30年は米の生産量は1240万トンを超える大豊作であったし、その後も豊作続き、35年には史上空前の1290万トンを記録した。当然、農業所得は予想を超える伸びを示していた。

それがなぜ曲がり角?

理由は他産業に比した所得の相対的な伸び率格差である。昭和20年代後半、勤労者家計と農家所得の格差はほとんどなかった。それが経済が成長軌道にのるなかで、相対的な所得格差が拡大し、生活水準の格差を農民は敏感に感じるようになった。成長の時期の相対的所得仮説が妥当する一例である。

この曲がり角意識に見られる農村や農業の崩壊し行きはじめる深層を、戦前から農村を歩いて農民の話を蒐集していた民俗学者宮本常一は鋭く観察している。

それは、彼が

「仮にこれを土着の思想とでも言っておこうか。・・・土に密着するということではなく、自分の立っている場を基準にして物を考えることと解していただきたい」

と述べ、それが「昭和30年代以降・・・大きな変化の萌芽を見はじめた。それは昔がよいとかいう問題ではなかった」という問題である。

そうして、農民、とくに女性たちから自分の子供を百姓にはしたくない」、「自分たちはどんな苦労をしてでも子供を高校へだけはやりたい、そして他郷へ出して百姓でない仕事をさせたい」という話を聞くようになったという。それで田畑はどうなると聞くと、「子供が他所でらくに暮らせるのなら、私たちの死んだあと、田畑が荒れてもいいと思う」という返答を受け取る。

そこに、宮本は、「自分の村を基準にして見るのではなく、自分の村を外からながめる眼ができて来た」ことを知る。相対的な比較の世界である。

しかしそこで、宮本は、そうした話が30歳から50歳の人に会っての話だと気づく。

「老人たちはどう考えているのであろうか」

「私の逢った老人たちの多くは、若い日に自分の村を何とか自分の頭に描いている理想の村にしようと努力した体験をもっている。その人たちの中で単に自分の家さえよくなればよいと考えているものは・・・一人もいなかったといっていい。・・・村がよくなれば村の一軒一軒の生活もよくなるのだと信じていた。」

そういう老人たちの考えをだ。

そこで、老人たちの話を聞く彼が感じるのは、「昔とちがっていちじるしく疲れて来ている」ということだ。それは肉体的疲労ではない。コタツでテレビを見る楽な生活、一見、楽隠居にみえる。「結構な世の中になった」という老人は多いがほんとうにそうか。彼には老人たちの心の深層にある、ぞっとするような心細さや心の疲労が感じ取れる。

宮本にしてみれば、長く「明治という時代の教育が作り出した人間像」の活動するところを見聞きしてきた。いま老人となって話を聞く彼らの心中がよくわかるのだ。

村は彼らの考えていたものとは別物になった。とにかく便利になった。しかしそれでよいのかと。

誰もあとを継いでくれない。村人の心はバラバラ。何もかも金、金、金という。

「その金で買えないよさを持つ村をつくることが老人たちのかつての夢であったものが、いま無残にうちくだかれている」。

「そして夢をこわされたことから来る挫折が老人たちの心を疲労せしめている。」それがまた「中年以下の人びとの多くに農業を、また村を見かぎらせることともつながっている」と。

「金で買えないよさ」を求める村づくりの挫折からくる心の疲労感、それは次の世代の村の見限りにもなり、見限る彼らは他所からの眼で村をみて、そうして金で買えるかに思える自分の家をどうするかしか考えなくなる。

「実は共同体としての村の解体は同時に古い家庭の解体をも意味しており、便利になったということと、安定した生活ということとは決して一致していない。」

いまや、心の疲労感のうちに、成長期に入った日本で晩年をすごした老人たちはとうに死にゆき、金で買えないよさを求めたその夢も消え、次のなにもかもカネ、カネ、カネの世代も死にゆき、腹に一物、コンタンのある連中が地方創生だ。村はとうに、どうしようもない心の疲労感のなかで崩壊してしまっているのに。

そうした動きに批判的でなんとかあれこれ理屈をつける農業もあるやにきくが、しょせんそれとて、カネで買えるよさしか眼中にないようにみえる。

荒れきった田畑を掘り起こして、過ぐる世代の夢と心の疲労を掘り起こす<考古学>農業青年は出るやいなや。いや問うのは止そう。新たに心の疲労がやってくるだけだ。