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よろづ天道まかせで

世論

「・・・演劇、浄瑠璃、小説等盛んに行はれ・・・是等のものは固より当時社会の風教を変んと欲するの卓見を以て作り出だされたるものにあらず、全く社会の風教を其儘に写し出せるものとして見るべきならん。・・・されば社会に行はるゝ輿論は、常に英雄豪傑の首唱になるが如しと雖も、其実は当時の一般人民に利益あるものに外ならざるなり、・・・彼の勧善懲悪の世の教の如きも、必ずしも聖人の作りしものにはあらで、愚夫愚婦の輿論集まりしものと思はる。」
(田口卯吉、『日本開化小史』、改造文庫、第二十二篇、pp.201-202.)

人によってさまざま、世の風教の現状への憂い、嘆きが持たれる。しかし、かくなっているのは理由あるはず、それが人々の利益になっているからそうなのだろうと解釈するほかないときもある。現状は集合的に決まり、見解は個々に抱かれるから。世の風潮、世論と我が身の感覚の懸隔に違和感を抱く向きもあろうが、理由あってそうなっていると考えるしかないか。しかし、こと政治については、とにかく社会的な争点が浮上しているときは、個々人の見解が反映される世論の趨勢を問う機会があって欲しいと思う。世論調査が折にふれ公表されるが、だからといつて世論を尊重する方向に政治が向かうものでもないのだから。