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よろづ天道まかせで

世の事情に由りて

多くの人が成功を目指して今年も、仕事に事業に臨む。なにゆえそうした血気に生きるのかといえば己が生存のため、そうしてまたなにをもって成功となすかは、世人という判定者の評判に照らして大きな成果をあげたかにあるのだろう。世人の重きを置かぬ事業にいくら好業績をあげたとて、なんの手柄にもならないのかもしれないから。

「蓋し人は常に他人より勝れたる事業を為さんとするの心あり、是亦た生を保たんが為めには、外物に打勝つ事肝要なれば是心起るなり。自ら以て他人より勝れたる事業を為せしとするも、世人も亦た爾く思ふや否知るべからず、故に之を世の評判に徴し、其事業の大小を質し、世人の大とする所人之を為さんと欲し、世人の小とする所人之を為さゞらんと欲す、是れ蓋し栄誉を望み恥辱を避くるの心にして、高名心の起源亦之に外ならざるなり、然り而して其大とし小とするも、世の事情に由りて大異あり、・・・」
(田口卯吉、『日本開化小史』、改造文庫、第二十二篇、p.71.)

しかし、この世人の大とし小と判断していることも、その世界世界で異なるし、事情もまた変化するものだろう。成功し手柄をあげたと思ったときには世人が手のひらを返したように重きを置かなくなっていることもある。またその逆もあろう。そうであれば、ただいま、なんでそんなことしている、手がけている理由がわからんと言われても、それが後に世の賞賛を浴びることもあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。人が何に地道をあげるかはそのときどき難しいものがある。