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よろづ天道まかせで

前に立とうと

チャイナ,西晋のころの魯褒の書、「銭神論」は貨幣万能とその権力を説いているが、江戸期の恋川春町の戯作、「金々先生栄華夢」の前文にもそれへの言及があって、カネのこととなるとよく読まれていたことがわかり興味深い。

文(ぶん)に曰(いは)く、浮世(ふせい)は夢(ゆめ)の如(ごと)し、歓(よろこ)びをなす事(こと)いくばくぞやと、誠(まこと)に爾(しか)り。金々先生(きんきんせんせい)の一生(しやう)の栄華(えいぐわ)も邯鄲(かんたん)の枕(まくら)の夢(ゆめ)も、共(とも)に粟粒(ぞくりふ)一すゐの如(ごと)し。金々先生(きんきんせんせい)は何人(なんびと)といふ事(こと)を知(し)らず。思(おも)ふに古今(こきん)三鳥(てう)の伝授(でんじゆ)の如(ごと)し。金(かね)ある者(もの)は金々先生(きんきんせんせい)と成(な)り、金(かね)なきものはゆふでゝとんちきと成(な)る。さすれば金々先生(きんきんせんせい)は一人(にん)の名(な)にして、一人(にん)の名(な)にあらず。神銭論(しんせんろん)に謂(い)はゆる、是(こ)れを得(う)るものは前(まへ)に立(た)ち、是(こ)れを失(うしな)ふものは後(しりへ)にたつと、夫(そ)れ是(こ)れこれを言(い)ふこと云々。

 

銭神論を神銭論といっているのはご愛嬌かもしれない。カネがあれば金々先生、なければ夕方にはトンチキになってしまうと。前に立つのはカネある者、カネなきは後ろに引っ込んでなきゃならない。

誰もが前に立とうとしているが、「浮世(ふせい)は夢(ゆめ)の如(ごと)し」、粟粒(ぞくりふ)が一睡する間の夢のようなもんだとすれば、競って前に出ようとするのはばからしいか。夕べにはとんちきになっちゃうけど・・・